DATE 2021.08.28

【“恐竜くん”ができるまで前編】8歳で海外留学を決心。夢を有言実行する方法

サイエンスコミュニケーターとして活躍する恐竜くん。恐竜を通して知ることや学ぶことの楽しさを伝えるオンリーワンの存在は、どのように作られていったのか。恐竜くんができるまでを聞いた、ロングインタビュー前編。

6歳で恐竜に「一目惚れ」をした

恐竜の正しい知識を楽しく・わかりやすく伝える活動を行う日本唯一の存在である「恐竜くん」。現在、パシフィコ横浜で開催中の「DinoScience恐竜科学博 ララミディア大陸の恐竜物語〜」の企画・監修を行うなど、サイエンスコミュニケーターとして、恐竜を通して生き物や自然、科学や環境問題など、世界の様々な物事に目を向けてもらう「きっかけ」をつくることを活動テーマとしている。 

 

*「DinoScience恐竜科学博 ララミディア大陸の恐竜物語」に関する記事はコチラ

幼い頃から恐竜に魅了され、10代で海外に飛び出したという恐竜くん。いったい、どんな子どもだったのだろう?家族や周りの人は恐竜くんをどうサポートしたのだろう?恐竜が好きな子たちの憧れの存在である恐竜くんに子ども時代を振り返ってもらった。

 

――恐竜くんが恐竜を好きになったきっかけは、何かあったのでしょうか?

 

「恐竜以前に元々、生き物が好きな子どもでした。母が美大出身だったので、母と姉と3人で上野の美術館に行って、その後に上野動物公園に行くという休日の定番コースがありました。6歳のある時、雨が降っていたので、動物公園ではなく国立科学博物館へ行ったんです。

昔は博物館に入った吹き抜けのところに、恐竜の骨格標本が展示されていました。それを目にした瞬間に一目惚れでした。後付けで説明すると、生き物は好きだったけど、それ以前に恐竜との接触がなかったので、あまりにも自分が知っている生き物と大きさも見た目も違う生き物に圧倒されたという感じでしょうか。その骨格のインパクトがとても強く、今でもその記憶は鮮明に残っています。

それからは、絵日記を描いても、文は『おばあちゃんの家でスイカを食べました』なのに、絵は全部恐竜だったり、自分の名前は漢字で書けないのに恐竜の名前は漢字で書いたりみたいな状況でした(笑)」

 

――6歳で一目惚れしたんですね。ご家族はそれをどうサポートされたのでしょうか?

 

「両親はふたりとも全面的に応援してくれました。例えば母は子供向けの図鑑を買ってくれたり、恐竜のフィギュアを買ってくれたり。

一方で父はすごく変わり者でした。父自身は演劇が異常なほど好きで年間200300本観るのを50年続けていました。父は『子どもを子ども扱いしない』っていう変なポリシーがあって、子ども心には何を言ってるのかよくわからない、という時もある人でした(笑)。

例えば、よさそうな恐竜の本があったからと買ってきてくれたのは、大学の図書館くらいにしかなさそうな分厚い専門書だったり、時には英語やドイツ語の本だったり。もちろん子どもには全然読めなかったのですが、それらの本は今でも充分役に立っています」

 

小学校低学年の時。
小学校低学年の時。

――小学生に本格的な文献を。ご両親とも、恐竜への思いをバックアップしてくれたんですね。

 

「そうですね。そういう意味では恵まれた環境だったと思います。僕が恐竜に興味を持ってからは、家族の夏の旅行は全国の博物館を周るというのがテーマになりました。北海道から始めてだんだん南下していく形で、1年目は北海道2年目は東北行って次に北陸に行って、という。博物館も科学系だけじゃなくて、歴史博物館とか美術館とか資料館とか色々なものを結構片っ端から巡っていきました。僕が最初に恐竜に興味を持ったのが小学校1年生で、それから中学に入るくらいまで毎年続きました」

 

ーーカナダへの思いを16歳で叶えるわけですが、それまではどう過ごされたのでしょうか?

 

8歳の時には『将来はカナダのアルバータ州に行って恐竜の研究をする』と言っていて。ある意味その通りになるんですけど、そういう時も『子供の言うことだから』と流さずに、真剣にそれを聞いてくれていました。とはいえ、カナダに親戚がいるわけでもなく、行く手立てなんてなかったんですけど、13歳の時、母が『こんなのがあるよ』と、カナダ・アメリカへ行く発掘ツアーを見つけてきてくれました。それで、1人で参加することに。生まれて初めて飛行機に乗って、これまた初の海外でした」

 

ーー初の海外旅行に1人で、しかも発掘ツアー!いかがでしたか?

 

「すごくマニアックなツアーでした(笑)。普通の観光地には一切寄らず、早朝3時に出発して延々車に揺られて、一般的には何もないところに行って化石を掘ったり、博物館へ行ったりするという。そこで、『やっぱり自分はこれをやりたい』ということを、完全に確信しました。ちなみに、『DinoScience 恐竜科学博』で、全面的に協力してもらったブラックヒルズ地質学研究所の所長のピーターと最初に会ったのもこの時なんです。そんな出会いもあったりして、あのツアーは僕にとってのターニングポイントでしたね」

 

――そんな出会いもあったんですね。そこからカナダ留学まではどのような流れだったんでしょうか。

 

「その後、中学を卒業して日本の高校に入りましたが、その頃から全然やりたいことに近づいている実感がなく、周りから見ていてもフラストレーションが溜まっている状況になっていたようです。それは親も気づいていたみたいで」

 

ーーやりたいことがあるのに、そこになかなかたどり着けないジレンマですね。

 

「カナダに行きたいのに、その手立てがなくて。18歳未満で留学するには現地の身元引受人が必要なんですが、その頃カナダに縁はなかったので。そこで、たまたま書店で見かけたカナダの高校と提携しているインターナショナルスクールに転校することになりました。直接は恐竜とは関係ないんですが、授業はネイティブのカナディアンが英語で全てやっているという学校でした。だから最低でも英語の勉強にはなるし、カリキュラムはカナダの高校に沿っているということで」

17歳でカナダへ。夢を叶えるための戦略

――英語を学ぶなら英会話スクールなどの選択肢があると思うのですが、そうではなく、日本のカリキュラム外の学校に転校するのは思い切った選択な気がします。結構向こう見ずなタイプでしたか?

 

「楽観的ではありますが、同時に、全て理屈で考えるタイプでもあったので、むしろ慎重すぎるくらいの子どもでしたよ。皆が高いところから飛び降りても、これを飛び降りて転んだら、子どもの骨なんてまだちゃんと完成してないから危ないからダメだなと考えるような。あとは小さい頃は自転車に乗れなかったんですよ。なぜかというと、どうして自転車が倒れずに走るのかのメカニズムがどうしても理解できなくて(笑)。とにかく自分が納得できない限り、『周りがやってるからやりたい』という発想が全くない子どもでした。

 

ただ、高校に関してはその学校は先生たちがカナダ人という事で、その先生たちと仲良くなったら身元引受人になってもらえるかもしれないという思惑がありました。そんな縁ができなくても英語が勉強できるので18歳になったら、カナダに行けばいいという感じでしたね」

 

――一歩でもカナダに近づきたかったということですね。

 

「そうですね。それから1年と少しその学校に通ったところで、仲良くなった先生がカナダに帰ると。カナダで恐竜の勉強をしたいという話はずっとしていたので、『前から言っていたから、僕が身元引受人になってあげるから一緒に行こう』と言ってくれました。それが16歳の時でした」

 

――まさに思惑通りに。先生もですけどご家族もすごいですね。全面的な協力体制。

 

「自分も家族も楽観的なんですよね。あと、両親は仮に僕がそこで迷ったら逆に『何を迷う必要があるんだ』と背中を押してくれるタイプでもありました。この分野では、最初のハードルが両親の理解を得るところっていう人が多いんですよ。『恐竜なんかで食べていけるのか』とか、『学問の世界なんてハードルは高いし、門は狭いし』とか言われてしまう。それは日本だけじゃなくて海外でもありました。その部分に関しては僕は一瞬たりとも不安を感じたことがないので、両親には本当に感謝してもし足りないですね」

 

後編につづく

『DinoScience 恐竜科学博』

 

 

 

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