映画『泳ぎすぎた夜』。子どもがまとう“無”の空気を映像に閉じ込めた、小さな冒険の物語
「子どもの頃は、1日が死ぬほど長かった」「いつも暇で、退屈を持て余していた」という人は、とても多いはず。現在公開されている映画『泳ぎすぎた夜』は、子どもがかもし出す“無”の空気を映像にしたような、みずみずしさに満ちた小さな冒険物語である。
主人公は、雪国に住む1人の少年。雪がしんしんと積もる町に、両親と姉の4人家族で住んでいる。漁業市場で働く父親は、いつも暗いうちから起きて仕事に向かう。その物音で目をさました少年は、おもむろに階段を下り、おやつを食べ、魚の絵を描いて写真を撮る。また寝ようとするが、眠れないまま朝を迎え、少年は母親に起こされる。寝ぼけたまま準備をして学校へ行くが、その途中に少年は何かを思い立ち、学校に行くのをやめ、町をさまよい始める。
絵を父親に届けようと思ったのか、学校に嫌気がさして父親に会いに行こうとしたのかは分からない。町をさまよう少年は、手袋を片方落としたり、犬に吠えられたり、小さな事件を起こしながら進んで行くが、最後にはちょっと大きな事件を起こしてしまう。それもまた少年らしくて面白い事件だったが、ことなきを終え、再び朝を迎えることになる。
今作を手がけるのは、国も言葉も異なる2人の新鋭監督、ダミアン・マニヴェルと五十嵐耕平。ロカルノ映画祭のコンペティションに出品していた2人は、偶然ディナーで隣の席になったのをきっかけに、共同監督を務めることになった。
「偏ってしまうので、お互いがあまり知らないものを撮りたい」という思いから、子どもを主人公にした映画に。かつ2人がなじみのない「雪国」という点もポイントになり、五十嵐監督が以前に仕事で訪れ「とても気に入った場所」だった青森県弘前市が舞台となった。
1ヶ月ほど弘前市に滞在する中、1人で子どもが出かけるというストーリーに決まり、キャスティングに取り掛かる。駅前のショッピングモールにやって来る子どもたちを観察し、気に入った子と親に声をかけてスカウトした。ある日音楽イベントで、主人公の少年役の古川鳳羅(たから)くんと出会う。「自由に動き回り、エネルギーにあふれ、瞬間瞬間にエモーショナルだった」と、五十嵐監督は話す。
普通の男の子である鳳羅くんの演技が、とにかく自然で、肩の力が抜けていて心地いい。ちょっとした動きやため息のようなセリフにも、つい見入ってしまい、わが子を見るような感覚で目を緩めてしまう。撮影は簡単ではなかったようで、マニヴェル監督は、「一番楽に撮れたシーンが、犬のシーンだった」と振り返る。しかし、「鳳羅くんがクリエイティブでアイデアが豊富で、彼のアドリブもたくさん入っている」と、彼が持つ豊かさをつぶさないようにと考えながら撮影は進められた。
映画では、「なんとなく暇」「退屈」というような、子どもならではの“無”の空気感が、丁寧に切り取られている。いつも楽しいことを探している、何も考えずに本能的に動くというような、人間が動物であることを思い出させるシンプルな生命力がみずみずしく映し出される。
その生命力は、音にも現れている。劇中では音楽をほとんど使わず、雨の音や雪を踏む音、息を吸う音吐く音、きぬ擦れ音、ごはんやお菓子を噛む音など、音が1人の役者のように主張している。それによって自然と人の営みが共にあること、生命力の大きさを改めて感じさせられる。
大人になった私たちが、もう持てない宝物のような時間。そんな時間の中を子どもたちが今、生きているというのを再確認するにも、とても面白い映画である。『泳ぎすぎた夜』というタイトルが物語るように、子どもたちは毎日を泳いでいる。いつか足がつき、泳げなくなる時が来るが、そこは大人への入り口。子どもだけが知る、宝物のような時間をちょっとのぞき見る感覚で、『泳ぎすぎた夜』をぜひ観てみて欲しい。