DATE 2020.08.24

『アンオーソドックス』が描く、女性の人権と自立。 社会慣習の裏にある「犠牲」について思いを馳せる。

ティーン世代にこそ観て欲しいNetflixコンテンツを映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんがレコメンド。第3回は、厳格な超正統派ユダヤ教徒コミュニティの呪縛から逃れようとする女性の姿を描く『アンオーソドックス』。
『アンオーソドックス』より

日本でも「Netflixでテレビシリーズを見る」ことが生活習慣化した人が増えてきた一方で、「海外のテレビシリーズを見るのは膨大な時間がかかる」という先入観も根強い。いや、実際に膨大な時間がかかる作品もたくさんあるのは事実だが、基本的に人気が衰えない限り次のシーズンに続いていく一般的な「テレビシリーズ」と、最初から1シーズンで完結することが前提で製作される「リミテッドシリーズ」(ミニシリーズとも呼ばれる)の二種類の作品があって、エミー賞やゴールデングローブ賞などの賞レースでもその二つの部門が分かれていることは、海外のテレビシリーズを熱心に追っている人以外にはあまり知られていない。

 

それでいうと、今回紹介する『アンオーソドックス』は1シーズンで完結するリミテッドシリーズ。しかも全4エピソード、各エピソード約50分と、ちょっと長い映画を見るような感覚で完走できてしまうという点で、誰にでもオススメしやすい作品だ。タイトルの『アンオーソドックス』が意味するのは、ユダヤ教の宗派の中でも最も厳格にその教義と生活習慣を守り続けている「超正統派」のこと。オシャレなカフェやレストランや古着屋を目当てに多くの観光客も足を運ぶニューヨーク・ブルックリンのウィリアムズバーグには、そんなユダヤ教超正統派のコミュニティがいくつもあって、街を歩けば日常的に彼らとすれ違う。本作は同地区出身の作家、デボラ・フェルドマンが実体験を綴った原作をもとにしている。

『アンオーソドックス』より

ユダヤ教超正統派の人々は、見た目からすぐにわかる。男性は黒い帽子を被り、黒いコートをはおり、もみあげを伸ばして束にしている。コミュニティの中では、帽子の被り方やもみあげの長さや形によって、どのラビ(指導者)についているかがわかるという。一方、女性の服装は詰襟にロングスカートが基本。「髪の毛は男性を誘惑するもの」という教えから、既婚女性は髪をすべて剃り、外出時は頭をウィグやスカーフで地毛を覆う。本作の主人公エスティの坊主頭は、彼女が既婚者であることを表している。

『アンオーソドックス』より

物語は、18歳で見合い結婚をして(ちなみに原作者のデボラ・フェルドマンが結婚したのは17歳だったという)、1年間の苦渋に満ちた結婚生活を経たエスティが、夫やコミュニティから逃げ出すために、ニューヨークからベルリンに渡るところから始まる。その一連のシークエンスは、「追われる者」と「追う者」を描いたスリリングなサスペンス作品としても見どころたっぷりなのだが、この「ニューヨークからベルリンへ」という移動のベクトルは重要だ。何故なら、彼女が属してきたウィリアムズバーグのコミュニティを築いた超正統派の移民一世は、ナチスの迫害から逃れるために、ベルリンからニューヨークに流れ着いたユダヤ人たちだったからだ。かつてのユダヤ人にとって呪われた街であったベルリンと新天地だったニューヨークが、ここでは完全に逆転しているわけだ。

『アンオーソドックス』より

さて、ここまで読んで、いくら現代のニューヨークやベルリンが物語の舞台とはいえ、ユダヤ教超正統派という題材は、日本人にとってあまりにも馴染みがないものなのではないかと思った人もいるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか? 親や親族によって周到にセッティングされた結婚。義務化した正月やお盆の親戚の集まりと、そこで女性に課せられた役割。食事や入浴といった日常習慣にまで深く根付いた家父長制に基づく決まりごとの数々。公の場で平然と「女性は産む機械」と発言する政権与党の閣僚(『アンオーソドックス』にもそのままの言葉が何度も出てくる)。宗教上の規律はさておき、本作で主に回想形式で描かれていく超正統派の人々の慣習のエキセントリックさの多くは、日本人にとってもよく見覚えのあるものだ。

 

原作者のデボラ・フェルドマンは、主人公エスティのように一人ではなく、夫と息子とともに2006年に超正統派のコミュニティから抜け出して、息子と二人でベルリンに渡るまでの数年間、アメリカの大学で文学とフェミニズムを学んだという。そして、本作は原作、監督、主演だけでなく、エグゼクティブプロデューサー、プロデューサーから末端のスタッフまで、その多くが女性によって固められている。そうした作品の裏側での取り組みは、それがどれだけ有意義なものであったとしても、作品そのものの評価とは切り分けるべきだと自分は考えているが、主人公の未来を鼓舞しながらも批判対象を一方的に断罪するわけではない柔らかな眼差しと、(敢えて「映画的」という言葉を使うが)映画的に極めて優れた達成を前にすると、今後ますます映画においてもテレビシリーズにおいても、現代的なジェンダー意識やマイノリティへの尊重が重要なものになってくるだろうと思わされる。

『アンオーソドックス』より

複雑なのは、本作で批判的な視点からその実態が描かれているユダヤ教超正統派もまた、アメリカ社会、そしてニューヨークの地域社会においては、歴然としたマイノリティであることだ。つい先日、コロナ禍真っ只中にあった4月28日にも、ニューヨーク市の外出規制を破った数千人の超正統派の人々が、新型コロナウイルスで亡くなった高齢のラビの葬儀に集い、その現場にビル・デブラシオ市長が乗り込んで散会を命じるという大騒動が起こったばかりだ。客観的には異常としか思えないような行動も、誰かにとっては「正しい」ものであり、その「正しさ」は他の「正しさ」と衝突する。『アンオーソドックス』のような最先端のテレビシリーズは、その複雑さや困難さに真っ正面から取り組んでいる。

Netflixオリジナルシリーズ『アンオーソドックス』独占配信中

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